更新日:2014年5月1日
万治3(1660)年、下原村・上原村と内馬場村とで取り交わした「山境改証文」が残されています。
燃料や家畜の飼料、農機具類の材料となる木材の供給源である山は、戦後しばらくまでの暮らしにとって非常に大切なものでした。江戸時代には、境目の目印に岩や木などが使われたため年月が経つと判別しにくくなり、度々山論が起こりました。
この証文は、現在の日生中央周辺にあたる細黒見山と川裏山の3か村境を取り決めたもので、論争が続いたため、ついに伊勢大神宮の御師が「御幣くじ」で山の境を定めたという珍しいものです。境には炭を埋めお払いをし、定めを破れば神罰があるとされました。しかし30年後には「銅山出来」で再び論争し、境目に堀切をしました。
その後、文化12(1815)年に別の山論が解決した際、細黒見内の西松尾が替地され、内馬場領となったという改絵図も残っています。(写真:舞台となった現在の松尾台地区・写真中央の団地)
《読み方》
山境=やまざかい、万治=まんじ、下原=しもはら、上原=かんばら、内馬場=うちばば、山境改証文=やまざかいあらためしょうもん、境目=さかいめ、山論=さんろん(山の境目などで村同士が権利争いをすること)、細黒見山=ほそくろみやま、川裏山=かわうらやま、3か村境=さんかそんざかい、伊勢大神宮=いせだいじんぐう、御師=おんし(伊勢神宮の神官の一種で全国を巡り、担当地域と神宮を結ぶ役)、御幣=ごへい、神罰=しんばつ、銅山出来=どうざんしゅったい、堀切=ほりきり、細黒見内=ほそくろみない、西松尾=にしまつお、替地=かえち、内馬場領=うちばばりょう、改絵図=あらためえず