更新日:2014年5月1日
幕末の開国から第二次世界大戦まで、貿易輸出で首位を占めたのは生糸でした。その利益は近代の産業社会の礎となり、製糸業の保護・指導・調査が盛んに行われました。
摂津では、明治初年に能勢郡のみだった養蚕が、明治後期には川辺郡でも行われるようになりました。
猪名川町域では、明治34年(1901)蚕の飼養戸数は111戸で郡内の0.8パーセント、それに対し生産量は154石で郡内の約41パーセント、養蚕業への期待が大きかったことがしのばれます。
また、中谷村より六瀬村で養蚕が盛んで、製糸(繭糸)も同年の中谷村では自宅1戸、六瀬村では製造所4戸、自宅28戸でした。
六瀬村には、明治29年(1896)6月に器械繰工場「川六工場(西本工場)」が設立され、これは川辺郡唯一の製糸工場(生糸)でした。
同35年には釜数15、工女12人、生糸製造高340斤、動力は水力で、39年には釜数20、工女20人、生糸製造高406斤、動力も蒸気力となっていましたが稼動日数が少なく、操業10年で閉鎖されました。
《読み方》
養蚕=ようさん、製糸工場=せいしこうじょう、幕末=ばくまつ、開国=かいこく、占めた=しめた、生糸=きいと、礎=いしずえ、蚕=かいこ、飼養戸数=しようこすう、郡内=ぐんない、製糸=せいし、繭糸=けんし(まゆいと)器械繰工場=きかいぐり こうじょう、川六工場=かわろく こうじょう(川辺郡六瀬村にあるからか)、西本工場=にしもとこうじょう(創業者が西本源次郎)、唯一=ゆいいつ、製糸工場=せいしこうじょう、生糸=きいと、釜数=かますう、工女=こうじょ、
(写真:川六工場(西本工場)跡地 )