仏教が伝来した時、人々は「新しい神」と見ましたが、律令政治体制のもと、大陸の最新文化で「世界宗教」である仏教に日本古来の宗教が組み入れられていきました。
奈良時代からは仏が神を救済し守るために神宮寺が建立されるようになり、神は仏法を守護する存在とされるようになります(鎮守)。平安期には神は仏が衆生救済のために姿を変えて出現したものと考えられ、個別に確定されていきます。
このようにして長い間神仏は一体化、習合してきました。その典型には修験道があり、銀山の神宮寺(三木市伽耶院の末寺)では、神仏習合の名残りを見られます。
さて、明治の神仏分離は多田院をも直撃し、慶応4(1868)年4月28日から神人、社僧たちが廃仏作業を開始、6月までかかって仏具・仏像を片づけ、源満仲、頼光、足利尊氏の三基の五輪塔などを裏門外に移し、多田神社と改称しました。
槻並に残る文書では、この時多田院御家人たちは、「神主・祭奠の儀は自分たちに仰せ付けを」と願い出ていますが実現しませんでした。
《読み方》
伝来=でんらい、律令=りつりょう、神宮寺=じんぐうじ、仏法=ぶっぽう、鎮守=ちんじゅ、衆生救済=しゅうじょうきゅうさい、習合=しゅうごう、修験道=しゅげんどう、伽耶院=かやいん、末寺=まつじ、名残り=なごり、神人=じにん、社僧=しゃそう、祭奠=さいてん、仰せ付け=おおせつけ
(写真:銀山の神宮寺)