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第124話 「木津(きづ)村と杤原(とちはら)村の暮らし」

 前回は町域北部の杉生、仁頂寺の江戸時代の暮らしを紹介しましたが、中部ではどうだったのでしょうか。木津村、杤原村の享保14(1729)年の明細帳を見てみましょう。
 杤原村の様子がわかる古文書はこの明細帳しか確認されていません。
 まず、杤原村の人口は221人(男121人、女97人、出家3人)、牛15匹、家数49軒です。村高は123石。日々の暮らしは農業の他、男は篠山藩の年貢米を池田へ運び運送賃を取っていたのが特徴的です。猪・鹿・鳥用鉄砲は9挺。山椒の税も納めていました。 氏神八幡宮、地蔵堂、称名寺、自頂庵、阿誰庵の他に、山の神の祠が3カ所ありました。
 木津村は村高約325石、家数50軒、人口258人(男134人、女122人、出家2人)、雌牛が22匹おり「但馬ハ無之候」とあるので、当時から役牛としても但馬牛は高級ブランドだったのでしょうか。鉄砲は10挺登録されており、内1挺は「御封印御預筒」です。
 氏神牛頭天王、阿弥陀堂、龍王堂、八幡宮、天澤寺、地蔵堂、義準庵、正入庵がありました。銅山が3カ所と書かれていますが「井ノ口間歩」「念仏山間歩」「風呂谷間歩」の廃坑です。
 生活は、男は「農業の間ニ駄賃稼」とあるので、杤原村同様年貢米の運送をしていたのかも知れません。農作業の合間に木挽きをする人が1人いました。また、往古よりあった温泉が平野村へ沸き替え、今は無いともあります。
 両村に特徴的なのは、杉生村、仁頂寺村に無かった溜池が多く、杤原村には3カ所、木津村には11カ所も記載されています。井堰も、杤原村には石井関2カ所、木津村には桧戸関1カ所、大石積井関2カ所があり、石堤も4カ所ありました。

《読み方、注釈》
杉生=すぎお、仁頂寺=にじょうじ、享保=きょうほう、古文書=こもんじょ、挺=ちょう、山椒=さんしょ、氏神八幡宮=うじがみはちまんぐう、地蔵堂=じぞうどう、称名寺=しょうみょうじ、自頂庵=じちょうあん、阿誰庵=あすいあん、祠=ほこら、但馬八無之候=たじまはこれなくそうろう、役牛=えきぎゅう、御封印御預筒=ごふういんおあずかりつつ、牛頭天王=ごずてんのう、阿弥陀堂=あみだどう、竜王堂=りゅうおうどう、八幡宮=はちまんぐう、天澤寺=てんたくじ、地蔵堂=じぞうどう、義準庵=ぎじゅんあん、正入庵=しょうにゅうあん、井ノ口間歩=いのぐちまぶ、念仏山間歩=ねんぶつやままぶ、風呂谷間歩=ふろだにまぶ、廃坑=はいこう、間二駄賃稼=あいだにだちんかせぎ、木挽き=こびき、往古=おうこ、溜池=ためいけ、井堰=いぜき、石井関=いしいぜき、桧戸関=ひのきとぜき、大石積=おおいしづみ

(写真左:木津村明細帳、写真右:杤原村明細帳)

(写真)木津村明細帳

(写真)杤原村明細帳

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