慶応4年(1868年。9月に明治と改元)5月に書かれた「江戸より京都迄人足賃銭帳」という文書が阿古谷に伝わっています。
これは戊辰戦争に参加し、新政府方として戦った多田院御家人達が組織した「多田隊」の小監察隊長であった仁部長左衛門が残したものです。
戊辰戦争において、新政府軍は「東山道」「北陸道」「山陰道」「東海道」に分かれて進軍しましたが、長左衛門は東山道征討に加わっています。東山道鎮撫総督は岩倉具視の第二子岩倉具定でした。
東山道総督府の大きな印鑑の押されたこの賃銭帳の冒頭には、総督府道中取締から「板橋宿より大津宿迄 宿〃問屋役人中」にあてた「右者急 御用ニ付、江戸より京都迄早追ニ而通行被致候間、御定賃銭請取之宿〃、書面之人足無滞可差出者也」という文面が書かれています。長左衛門と他1人が急ぎの任務を帯びて早駕籠で帰京した様子がわかります。
5月6日に板橋を出て16日には大津に到着、途中で洪水のため1日足止めされており、通常の半分の日数でした。
「急用」がどのようなものだったかは不明ですが、長左衛門はこの後再び従軍しています。鳥羽伏見の戦いで征討大総督を務め、会津征討越後口総督となった仁和寺宮に従い北越征討に出征したのです。
この戦いでは多田隊からも1人の戦死者を出しており、重傷者1人は英公使館付医官ウィリアム・ウィリスの手術を受けています。多田隊のうち、東山道、北越の両方に従軍したのは仁部長左衛門ただ1人でした。
《読み方、注釈》
迄人足賃銭帳 =までにんそくちんせんちょう、戊辰戦争=ぼしんせんそう、多田院御家人=ただいんごけにん、小監察=しょうかんさつ、仁部長左衛門=にんべちょうざえもん、東山道=とうさんどう、征討=せいとう、鎮撫総督=ちんぶそうとく、具視=ともみ、具定=ともさだ、道中取締=どうちゅうとりしまり、宿=しゅく、宿〃問屋=しゅくしゅくといや、者急=はきゅうの、御用ニ付=ごようにつき、早追ニ而=はやおいにて、被致候間=いたされそうろうあいだ、御定賃銭請取之宿〃=おさだめちんせんうけとりのしゅくしゅく、之=の、無滞可差出者也=とどこおりなくさしだすべきものなり、越後口=えちごぐち、仁和寺宮=にんなじのみや、北越=ほくえつ
(写真:江戸より京都迄人足賃銭帳 (えどよりきょうとまでにんそくちんせんちょう))