前回、前々回と、江戸時代の町域北部と中部の村の暮らしぶりについて、古文書を読みときながら見てきました。今回は「明和五年銀山町明細帳」(第102話参照)と、77年後に高槻役所に提出された「銀山町職商人耕作日稼取調書上帳」とを比較して銀山町の盛衰の推移を、さらに民田村のようすも見てみましょう。
一説に「銀山三千軒」と謳われた銀山町ですが、最盛期の寛文年間から約100年後の明和5(1768)年には、その家数は86軒、人口309人になっていました。石高は22石5斗余りです。氏神は山神宮社(現在の金山彦神社)、寺は浄土宗の甘露寺と久徳寺、法華宗の大恵寺、真言宗の神宮寺の4寺で「壱ケ寺無住」でした。他に役所と付属の長屋2軒がありました。
77年後の弘化2(1845)年には、石高は変わらないものの家数43軒、人口162人と半減しています。専業の大工、すりうす(籾すり)が各2人で、質屋、農機具鍛冶各1人、吹屋3人、山稼・日稼1人は農業兼業です。農業にウェイトが移りつつあるものの29軒は「銅山稼渡世之者」で、まだ賑わいが残っていました。この頃既に寺3軒、庵1軒は無住となっています。
民田には、天明4(1784)年の「民田村家数人別附牛馬員数帳」が残されています。それを見ると村高は119石余で家数は79軒、人口は189人(男94人、女95人)牛が21匹いました。寺社は善久寺のみ記載されています。また家数のうち4軒は「山小屋」で、「銅山稼」の4家族が計29人(下財男12人、下財女17人)居住し働いていました。
《読み方、注釈》
明和=めいわ、日稼取調書上=ひかせぎとりしらべかきあげ、謳=うた、寛文=かんぶん、家数=いえかず、石高=こくだか、石=こく、斗=と、氏神=うじがみ、山神宮社=やまじんぐうしゃ、金山彦神社=かなやまひこじんじゃ、甘露寺=かんろじ、久徳寺=きゅうとくじ、大恵寺=だいけいじ、神宮寺=じんぐうじ、壱ケ寺無住=いっかじむじゅう、弘化=こうか、籾=もみ、鍛冶=かじ、吹屋=ふきや、山稼=やまかせぎ、日稼=ひかせぎ、銅山稼渡世之者=どうざんかせぎとせいのもの、賑わい=にぎわい、村家数人別附牛馬員数帳=むらいえすうにんべつつけたりぎゅうばいんずうちょう、善久寺=ぜんきゅうじ、銅山稼=どうざんかせぎ、下財=げざい
銀山町職商人耕作日稼取調書上帳
民田村家数人別附牛馬員数帳