現在の場所

第139話「明治初期の銀銅山」

  明治6(1873)年元銀山役所が払い下げられるなど、明治維新によって銀銅山の運営にも変化がおきました。
明治3(1870)年10月の「千軒立鉉銅山等稼方任せ証文」という文書が残っています。 これは民田村内11カ所の銅山(間歩)と建家を経営する権利を600両で譲るというものです。11カ所の銅山とは、立鉉銅山の他、室ノ木・中古家・小録青・録青・上中黒・中黒・下中黒・青木・鳥越・大黒の各銅山です。建家は、山下町領吹屋1・同所勘定場1・千軒領勘定場3・同所半場(飯場)1・同所砕小家1・同所吹屋1の8カ所です。
これまでは山下町下財屋敷の角屋喜八が請け負って運営していたものを、大坂南久太郎町の近江屋嘉助に10年払いで任せる契約です。「当午ノ十月(明治3年10月)」から「辰ノ五月(同13年5月)」まで毎月金5両を支払い、1か月でも滞れば銅山他は返却、全額を払いきれば名義を書きかえるというものです。証人に銀山町の2人の名があります。
他にも同2(1869)年8月の「銀山町五着銅山稼方譲証文」では、五着銅山2カ所と小家1カ所を250両で銀山町喜兵衛が多田院村新助に譲っています。もし休山する時には返金なしで、譲り主に銅山を返す約束でした。同4年6月には槻並村大森銅山の稼業願いを、広根村福井久三郎が「鉱山御支配六人衆中」にあてて出しています。また、同8年3月には神戸の事業家関戸慶治が民田村の字平井を借地し、鉱山営業中は15カ年ごとに借地料30円を支払うという取り決めをしています。
このように、これまで銀山町や山下町の人が主に多田銀銅山の運営をしてきましたが、古文書から、明治維新を境にそれ以外の人に経営の権利などを譲り渡すような動きが出てきたことがわかります。

 

読み方、注釈

千軒立鉉銅山等稼方任せ証文=せんげんたてづるどうざんとうかせぎかたまかせしょうもん、民田=たみだ、間歩=まぶ、建家=たてや、立鉉=たてづる、室ノ木=むろのき、中古家=「なかこいえ」あるいは「なかふるや」、録青=ろくしょう、吹屋=ふきや、勘定場=かんじょうば、半場=はんば、飯場=はんば、砕小家=くだきごや、下財=げざい、角屋喜八=かどやきはち、大坂南久太郎町=おおさかみなみきゅうたろうまち、近江屋嘉助=おうみやかすけ、当午=とううま、辰=たつ、滞れば=とどこおれば、五着=ごちゃく、小家=こや、多田院村新助=ただいんむらしんすけ、槻並=つくなみ、関戸慶治=せきどけいじ

 

 

「千軒立鉉銅山等稼方任せ証文」より

(写真)千軒立鉉銅山等稼方任せ証文

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