明治維新によって、多田銀銅山の運営も大きく変わることとなりました。維新直後には幕府の鉱業政策を踏襲した明治政府でしたが、明治2(1869)年には「開坑規則」を同3年「鉱山心得」、同6年「鉱山其他諸坑業の規則」=日本坑法と、法制も整備していきます。「開坑規則」によって民行鉱山開発の許可・管理は諸藩県に委任され「鉱山其他諸坑業の規則」によって借区制が導入され、政府の監督権限が明確になりました。
多田銀銅山の変化については「139 回明治初期の銀銅山」でふれましたが、「一八七七年の主な鉱業人」(武田晴人『日本産銅業史』)の第5 位には民田村で稼行する関戸慶治の名があげられており、地元には明治8(1875)年民田村の地主と関戸慶治との契約に際し作成された間歩絵図付きの約定書が2通残されています。1通は「民田村字平井」の東西300 間南北500 間、もう1 通は「民田村山内」の東西500 間、南北700 間におよぶものです。「字平井」は15 年間の借地料が30 円、更新は15 年ごと30 円、「山内」地所は年7 円で15 年契約、更新時も同様となっています。同18 (1885 )年ごろには民田村で3 坑を稼行し、銀山町とその周辺でも5 か所を借区しています。
関戸慶治は、従来、関戸由義と同一人物と思われていましたが、最近系図が発見され(松田裕之神戸学院大学教授による)、由義の長男とわかりました。当時12才で父由義が名義を使用したようです。由義は、字名「良平」といい、文政12(1829)年10月25日に越前福井の薬種商輪違屋分家に生まれたようで、明治21(1888)年8月17日の没年が刻まれた墓石が神戸市追谷墓園に屹立しています。九鬼隆義、小寺泰次郎、福沢諭吉らと近しかったため三田藩士説もありましたが、越前出身で、開港直後の神戸に着目し、渡米経験を生かして神戸の都市計画や様々な学校の設立・維持にも尽力した実業家でした。
《読み方》
「開坑規則」=かいこうきそく、「鉱山心得」=こうざんこころえ、其他=そのた、借区=しゃっく、稼行=かぎょう、間歩=まぶ、約定書=やくじょうしょ、「民田村字平井」=たみだむらあざひらい、「民田村山内」=たみだむらさんない、「由義」=よしつぐ、追谷暮園=おいだにぼえん、屹立=きつりつ、九鬼隆義=くきたかよし、小寺泰次郎=こでらたいじろう
▼民田周辺