伝承によると、多田銀銅山での銅の採掘が始まったのは神亀・天平の頃(724 ~ 749 年頃)といいます。武蔵国秩父で、日本初の天然の純銅が発見された慶雲5(708)年(注1)からさほど経っていません。また、東大寺の大仏造立に多田銀銅山の銅が使われたとも伝わります。ですが、多田銀銅山での銅採掘に関する確実な史料は、最も古いものでも11 世紀なかばの採銅所関係のものです。「採銅所」とは、当時の国家・政府による鉱山支配の拠点です。多田銀銅山を管轄した摂津国採銅所は現在の能勢町野間にあったと推定されています。(次回参照)
さて、「壬生狂言」や新撰組の屯所(注2) が置かれたことで有名な京都の壬生寺に「壬生寺縁起」が伝わっています。その上巻に〔壬生寺撞鐘を鋳ること〕という一文があり、摂津国採銅所の銅が使われたことが記載されています。
ある時、壬生寺の本尊である地蔵菩薩が平政平という人の夢に現れ「壬生寺には鐘と鐘楼がないので造るように」と告げられました。鐘を撞くと「すべての悪いことや苦しいことが無くなる」といわれます。そこで広く寄付を募り、男女や位の高低、貧富に関わらず沢山の物品・金銭が寄せられました。なかでも摂津国採銅所からは16 斤6 両(注3)もの赤銅(注4)が納められ、大きな力になったと伝わります。鐘と鐘楼は弘長2(1262) 年閏7 月15 日に完成しました。
《注釈》
(注1)銅の発見のため、同年1 月11 日から和銅と改元
(注2)兵士などが詰めている場所
(注3)1斤= 16 両、16 斤6 両はおよそ10キログラム
(注4)銅に少量の金・銀を加えた合金。仏像・装飾品などに用いる。
《読み方》
壬生寺=みぶでら、神亀=じんき、天平=てんぴょう、武蔵野国秩父=むさしのくにちちぶ、慶雲=けいうん、経って=たって、造立=ぞうりゅう、採銅所=さいどうしょ、摂津国=せっつのくに、野間=のま、壬生狂言=みぶきょうげん、新撰組=しんせんぐみ、屯所=とんしょ、縁起=えんぎ、撞鐘=つりがね、鋳る=いる、平政平=たいらのまさひら、鐘楼=しょうろう、撞く=つく、赤銅=しゃくどう、弘長=こうちょう、閏=うるう、和銅=わどう、
▼「現在の壬生寺鐘楼と梵鐘(嘉永年間に再建)」