今秋、多田銀銅山のうち、中心部分である猪名川町銀山地区にある遺跡が国史跡に指定されました。鉱山遺跡として兵庫県下では初、全国でも8 番目の国指定史跡で、貴重な遺跡として認められたものです(詳しくは2 ~ 7 ページ)。
さて、現在「多田銀銅山 悠久の館」が建てられている周辺には、江戸時代、幕府の銀山役所とその関連施設が建っていました。
江戸時代の多田銀銅山と銀山役所の様子を知ることができる史料は、最後の銀山役人秋山良之助が執筆、筆写、整理した文書が主要なものです。秋山良之助とはどのような人だったのでしょうか。
秋山家と多田銀銅山との関わりは、元禄6(1693) 年に秋山滝右衛門が、藤井勝左衛門、市田作左衛門とともに銀山役人を命じられたことから始まります。良之助は滝右衛門から数えて8 代目にあたります。ただ、代々養子が続いていて、実子相続は良之助の実父太治三が初めてでした。また、銀山に定住し銀山で生涯を終えたのは祖父多助からでした。良之助は、文政2(1819)年に生まれ、同13 年(3 月に天保と改元)に数え12 歳で、退役した太治三の跡を継いで銀山役人に任じられています。そして明治2(1869)年に役人制度が廃止されるまで、39 年間の長期にわたって役人を務めるのです。彼の残した詳細な日記『日鑑』からは、非常に几帳面な性格と、祖先や神仏を大切に敬い、家族を大切にする心優しい人物像が浮かび上がってきます。そして、やや病弱でありながら職務に熱心で、新しいものや流行にも関心を向け、冷静な目で世の移り変わりを見る合理的な知識人でもあったのです。
《読み方》
良之助=りょうのすけ、滝右衛門=たきえもん、勝左衛門=かつざえもん、作左衛門=さくざえもん、太治三=たじぞう、多助=たすけ、日鑑=にっかん
▼悠久の館対岸の「銀山役所跡」を臨む