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第156話「冨田熊作の叔父冨田儀作」

町立ふるさと館には、青磁の壺や螺鈿の漆器、天日草で編まれた手提げ籠などの工芸品が展示されています。これらは静思館の建築主冨田熊作氏の叔父にあたる冨田儀作氏の子孫が郷里に寄贈されたものです。「三和高麗焼」「三和編」というこの作品らは、実業家であった儀作氏の工場で作られたものです。

儀作氏は安政5(1858)年に生まれ、熊作氏の祖父母である冨田太郎右衛門・龍子夫妻の次男となり、現猪名川町上野で育てられました。異母弟に大阪朝日新聞(現 朝日新聞)社長を務めた上野理一氏がいます。熊作氏同様、家産の傾きにより早くから働き、16歳から瓦製造に従事、銀山の採掘をするかたわら数学や測量学を学びました。

明治11(1878)年、地租改正の測量技術の教師となり、滋賀県の土地台帳編成にも尽力。同25年には褐炭を採掘、コールタール製造工場を起業し、同30年大阪・小西和商店の台湾支店支配人となり、同32年には朝鮮京城支店長として赴任し、以後30年余りを朝鮮実業界で過ごすこととなります。

冨田商会を興し、その足跡は多彩で鉄鉱山・牧畜・養蚕・植物園などを経営します。宝塚山本の植木や果樹も半島に初めて普及させました。実業界の雄となる一方「京城歯科医学専門学校(大阪大学歯学部の前身)」など数校を創立、教育にも尽力しました。

また、伝統美術・工芸を絶やさないよう高麗焼や三和編、螺鈿細工の工場を設立、「朝鮮美術工芸館」を造り無料開放しました。朝鮮王朝の陶磁の美を柳宗悦に教えた浅川巧らとも親交があり、陶磁文化を支える資金を提供したようです。

昭和5(1930)年8月に亡くなった彼の葬儀には数千人が会葬し、追悼会にも千数百人が参列したといいます。

 

 

《読み方》
叔父=おじ、儀作=ぎさく、青磁=せいじ、漆器=しっき、螺鈿=らでん、天日草=てんぴぐさ、籠=かご、三和高麗焼=さんわこうらいやき、三和編=さんわあみ、安政=あんせい、採掘=さいくつ、褐炭=かったん、京城=けいじょう、興し=おこし、養蚕=ようさん、雄=ゆう、柳宗悦=やなぎむねよし、巧=たくみ

▼冨田儀作氏

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