更新日:2014年5月1日
能勢町から鎌倉、笹尾などを通って宝塚市、三田市へと続く道は、天保8年7月3日(新暦1837年8月21日)山田大助ら徳政一揆の一行が通った道です。大塩平八郎の乱に連動して前日に能勢で蜂起した「能勢騒動」「山田屋大助の乱」などと言われるこの一揆は、穏やかだった旧六瀬村域を嵐の中に巻き込んで、翌々日に三田の興福寺で鎮圧されました。
天保の大飢饉をきっかけに、二百年余り続いた徳川幕府の体制が崩れていく歴史のうねりは、奥川辺にまで届いていたのです。能勢にあった大助の生家は、現在杉生の民家に移築されています。また、乱との関係は不明ですが柏原の永泰寺がこの時、4日夜に全焼しました。三田の興福寺では今も、当時の鉄砲の弾の跡などを見ることができます。巻き添えになった村々の庄屋なども処罰された大事件でした。(写真:能勢町から鎌倉へつながる中山峠)