更新日:2014年5月1日
激動する維新期に「高槻藩預かり」ながら幕府領であった猪名川町域の人々にとって、徳川方に付くのか新政府側に立つのかは大問題でした。
村々の指導者層である多田院御家人達が新政府支持を決めたのは慶応4(1868)年1月7日。前日に到着した岩倉具視の添状付きの新政府「参与役所」からの書状を受けたものでした。
翌8日、京へ出発したこの行動は、高槻藩が5日に降伏していたとはいえ、まだ大坂城落城前で大冒険といえるでしょう。この迅速さは、前年12月に能勢出身の奥西唯右衛門達が「御守衛士」に採用されたことを多田院が承知していたからと思われます(故郷を離れていた奥西らを多田隊浪人組、地元の御家人らが結成した多田隊を国元組として区別します)。
多田隊は東山道鎮撫軍、または会津征討軍として従軍しています。
地元に正式に維新が知らされたのは1月14日、「長州」名の徳川慶喜追討令が多田院を通して紫合村他に通知されました。
《読み方》 高槻藩預かり=あかつきはん あずかり、多田院御家人達=ただいん ごけにん たち、岩倉具視=いわくら ともみ、添状=そえじょう、付き=つき、参与役所=さんよ やくしょ、書状=しょじょう、京=きょう、高槻藩=たかつき はん、降伏=こうふく、落城前=らくじょう まえ、大冒険=だいぼうけん、迅速=じんそく、奥西唯右衛門=おくにし ただえもん、御守衛士=おまもり えじ、多田院=ただいん(現多田神社)、承知=しょうち、多田隊浪人組=ただたい ろうにんぐみ、国元組=くにもとぐみ、東山道鎮撫軍=とうさんどう ちんぶぐん、会津征討軍=あいづ せいとうぐん、従軍=じゅうぐん、長州=ちょうしゅう、徳川慶喜追討令=とくがわ よしのぶ ついとうれい、紫合村他=ゆうだむら ほか
(写真:多田院御家人の屋敷(槻並))