「摂津国」や「川辺郡」のように○○国や○○郡という制度がととのったのは7世紀頃、天武天皇から文武天皇の頃と考えられています。猪名川町域は摂津国川辺郡に属していました。また8世紀の初頭には、まだ能勢郡はなく、現在の能勢町や豊能町は川辺郡に含まれていたのです。川辺郡の行政機関「郡衙」は現在の伊丹市あたりにありました。『続日本紀』和銅6(713)年9 月19 日の記事に「河辺郡玖左佐村(現能勢町宿野、能勢町役場周辺)は山や川に遠く隔てられ、道路も険しく、大宝元(701)年に支所のような建物を建てていたが、このたび郡司(郡役人のトップ)を置き、あらたに能勢郡とした」という内容が書かれています。
元は同じ川辺郡であった能勢に「摂津国採銅所」が置かれた経緯は、わずかながら京都に近いというものだったのでしょうか。
摂津国採銅所の推定地は能勢町野間出野や片山、豊能町川尻などがあげられています。
国営の鉱山採掘・製錬の機関である採銅所は現在の山口県や福岡県などにもありました。
摂津国採銅所は「壬生官務家(注)」と呼ばれた小槻氏が代々管理・運営を行っていたようです。古代・中世の多田銀銅山に関する史料のほとんどは、この壬生官務家が残した「壬生家文書」と呼ばれる膨大な記録の中にあります。
今、壬生寺の境内には、近藤勇の遺髪塚などのある新撰組墓地がありますが、その一隅に「壬生官務家の墓」が2基祀られています。
《注釈》
(注)官務家=朝廷の文書の発給と管理をする家。小槻氏は平安中期頃から大学の算博士(算術を教授する人)と官務家を世襲した。
《読み方》
摂津国採銅所=せっつのくにさいどうじょ、天武=てんむ、文武=もんむ、郡衙=ぐんが、続日本紀=しょくにほんぎ、玖左佐=くささ、宿野、しゅくの、大宝=たいほう、郡司=ぐんじ、野間出野=のましゅつの、採掘=さいくつ、製錬=せいれん、壬生官務家=みぶかんむけ、小槻=おづき、壬生家文書=みぶけもんじょ、境内=けいだい、近藤勇=こんどういさみ、遺髪=いはつ、新撰組=しんせんぐみ、一隅=いちぐう、祀られ=まつられ、発給=はっきゅう、算博士=さんはかせ、世襲=せしゅう
▼「野間の大けやきから採銅所推定地の一つ、野間出野を望む」