更新日:2014年5月1日
安永元年(1772)の夏ごろ、江戸時代きっての博物学者・戯作者の平賀源内(1728から1779)が多田銀銅山を訪れました。
源内は高松藩出身で、長崎で医学・本草学を学び、江戸へ出て物産会の開催で有名となりました。早くから鉱山に興味を示しており、明和3年(1766)には現在の埼玉県で金山事業を開始し、安永2年(1773)には秋田藩が阿仁銅山などの再開発に招いています。明和7年(1770)から8年に「阿蘭陀翻訳御用」のため再度長崎へ留学。明和8年の後半から翌安永元年にかけて約1年程大坂に滞在。「此間、多田銀山銅山見聞いたし候、さてさておびただしき儀驚目申し候(中略)水抜工夫いたし申し候」などと書いた書状が残っており、この折に来訪し、坑道の排水を工夫したようです。
約100年後、最後の銀山役人秋山良之助が頭痛・肩こりなどに効くというエレキテル(源内が復元製作の摩擦起電機)を使っています。
(写真:水抜き坑(大切坑) )