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第147話「民田千軒と関戸慶治」

 

明治維新によって、多田銀銅山の運営も大きく変わることとなりました。維新直後には幕府の鉱業政策を踏襲した明治政府でしたが、明治2(1869)年には「開坑()規則」を同3年「鉱山心得()」、同6年「鉱山其他()諸坑業の規則」=日本坑法と、法制も整備していきます。「開坑規則」によって民行鉱山開発の許可・管理は諸藩県に委任され「鉱山其他諸坑業の規則」によって()()制が導入され、政府の監督権限が明確になりました。

多田銀銅山の変化については「139 回明治初期の銀銅山」でふれましたが、「一八七七年の主な鉱業人」(武田晴人『日本産銅業史』)の第5 位には民田村で稼行()する関戸慶治の名があげられており、地元には明治8(1875)年民田村の地主と関戸慶治との契約に際し作成された()()絵図付きの約定書()が2通残されています。1通は「民田村()平井」の東西300 間南北500 間、もう1 通は「民田村山内()」の東西500 間、南北700 間におよぶものです。「字平井」は15 年間の借地料が30 円、更新は15 年ごと30 円、「山内」地所は年7 円で15 年契約、更新時も同様となっています。同18 (1885 )年ごろには民田村で3 坑を稼行し、銀山町とその周辺でも5 か所を借区しています。

関戸慶治は、従来、関戸由義と同一人物と思われていましたが、最近系図が発見され(松田裕之神戸学院大学教授による)、由義の長男とわかりました。当時12才で父由義が名義を使用したようです。由義は、字名「良平」といい、文政12(1829)年10月25日に越前福井の薬種商輪違屋分家に生まれたようで、明治21(1888)年8月17日の没年が刻まれた墓石が神戸市()()()()屹立()しています。九鬼()()()小寺()()次郎()、福沢諭吉らと近しかったため三田藩士説もありましたが、越前出身で、開港直後の神戸に着目し、渡米経験を生かして神戸の都市計画や様々な学校の設立・維持にも尽力した実業家でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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()《読み方》
「開坑規則」=かいこうきそく、「鉱山心得」=こうざんこころえ、其他=そのた、借区=しゃっく、稼行=かぎょう、間歩=まぶ、約定書=やくじょうしょ、「民田村字平井」=たみだむらあざひらい、「民田村山内」=たみだむらさんない、「由義」=よしつぐ、追谷暮園=おいだにぼえん、屹立=きつりつ、九鬼隆義=くきたかよし、小寺泰次郎=こでらたいじろう

民田周辺の風景

▼民田周辺

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