戊辰戦争の勝者が未確定の慶応4(1868)年3月神仏分離の法令が明治政府から出されました(9月明治と改元)。神仏分離の思想は古く国学とともにあり、水戸藩では江戸初期に徳川光圀の廃寺政策により藩内の約半数の1098寺が廃寺となりました。
しかし一般には神仏は習合され、源氏の祖廟である多田院でも江戸期には西大寺(奈良)から5年任期の別当が着任して仏事をおこない、「社僧」が役務をおこなっていました。
明治の神仏分離は、江戸時代の寺請制度を解体し、新政府が国家神道をもって政治的・宗教的に民衆を直接支配する意図をもっていました。
これによって日本全国に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることとなります。
慶応4年6月、本願寺等宛に「廃仏毀釈を行う者は賊徒」との勅書が出され、明治4年、太政官からも「廃仏の意ではない」と布告されますが、死者の出た地方もあります。
町域では過激な廃仏毀釈はなかったようですが、寺や庵、祠が整理され、神社も祭神が天照大神系に統一されて、明治元年10月には木津に八幡神社が創立されています。
《読み方・注》
慶応4(1868)年=9月8日に明治元年と改元、戊辰戦争=ぼしんせんそう、徳川光圀=とくがわみつくに(徳川光圀(1628年から1700年)“水戸黄門”として有名。「黄門」とは中納言の唐名。朱子学に基づいて寺院の合理化をはかった。神社も一郷一社に整理し仏像を神道的なものに代えさせた。)、寺請制度=てらうけせいど、廃仏毀釈=はいぶつきしゃく、勅書=ちょくしょ(天皇の意思を知らせる公文書)、祠=ほこら、天照大神=あまてらすおおみかみ
(写真:八幡神社(木津))