今年は、夏の初めは雨が降らず渇水の気配でしたが、8月からは時により大雨・豪雨となりました。町内でも崖崩れや浸水が発生しました。
今から131年前の明治16(1883)年には雨が降らず大干害が起こりました。原地区内に同年11月付けの詳細な記録が残っています。それによると旱魃は80日間続いたようです。「5月4日から6月20日まで40日間雨がなく植付に差し支えた」「神仏に雨祷(※1)をしたので7月23日に1時間の少雨、9月13日には8時間で4合ほどの降雨があった」「7月21日からは水番を常設し、8月8日~18日は夜間には8名が勤めて井堰、水替え場の管理・設置をした」「雨祷は7月27日から内馬場・原の1軒につき1名が雨ノ森竜神様へ毎日参詣した」などとあります。
また原周辺では、笹部や見野(現川西市)、大原野・西長谷(現宝塚市)が収穫なく、その他の地域は二分作~八分作で、原では北部が四分作、南部が七分作と書かれています。記録の後半には「61年前(※2)文政6(1823)年にも80日間の大旱魃、30年前嘉永6(1853)年には120日間の大旱魃があり、いずれも凶作願いを出したが聞き入れられなかった。当明治16年の大旱魃は県庁・郡役所が検分の上減税してくれる事となったが、手続きに手数と費用がかかる事から、川辺郡では1名も願い出る者はなかった。」とあります。
そして文末には「子孫のため記載しておくものなり(※3)」と書かれ「61年か30年の間には大旱魃が起こるので、前年から準備心構えをするように」と呼びかけています。
同年には、柏原村でも皆無作から八分作の旱魃被害による上申書を提出した記録があり、広範囲での干害だったことがわかります。
※1 「雨祷」とは雨乞いのこと
※2 古文書には「61年前」とありますが、実際は「60年前」
※3 左記古文書の赤線部分に記載あり
「千軒立鉉銅山等稼方任せ証文」より