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第142話「日鑑」にみる幕末の世情

  元治2(1865)年(4月に慶応と改元)正月から閏5月までの日記があります。最後の銀山役人秋山良之助47歳の日記『日鑑』。暦の記載から始まるこの日記には幕末の不安な世情も記されています。正月29日の項には「尾州様(尾張徳川家義宜)越前様(松平慶永 ※1)淀候(稲葉正邦 ※2)他17大名が武装して芸州(現広島県西部)へ行き、長州の家老3名が道中は武装してきたが幕府陣営では礼服麻裃で恭順したので『御平和』となったこと」「山口新城取り壊しにも淀候と尾州家老衆が行かれ、帰りには厳島神社等へゆったりと参詣したらしい」「旧冬より水戸烈公(徳川斉昭)八男様(※3)が浪士千人余を従え入京」「旧冬は一橋殿一行に会津候の討手が向かったのに、今は一橋殿と加賀の家老が水戸一行の前後を固めて入京。度々様子が変わる事との噂」「浪士2~3千人が入京するとか、長州が2万の軍勢で来るらしい」「今上様(※4)が遷幸(※5)されるとか譲位されるとかの噂」「大坂江戸堀の旅籠(※6)にいた浪士20人を会津藩士50人が召し取った。京都に詰める会津藩士は1万6千人といい、猛々しく必死なので人々は会津をよけて道を通っている由」などとあります。激動の世を気にしながらもまだこの年は、同輩の郡司氏と親しくし、家族揃って自宅での花見や月見、蛍見などささやかな幸せをかみしめている秋山でした。


注釈
※1=春岳 ※2=京都所司代、老中 ※3=八男松平直侯は文久元年(1861年)死去しており、これは七男一橋慶喜のこと。元治元年に禁裏御守衛総督就任 ※4=現在の天皇。孝明天皇を指す※5=御所を移動させること ※6=旅館

 

読み方
日鑑=にっかん、元治=げんじ、改元=かいげん、閏=うるう、良之助=りょうのすけ、暦=こよみ、記されて=しるされて、尾州=びしゅう、義宜=よしのり、越前=えちぜん、慶永=よしなが、淀候=よどこう、稲葉正邦=いなばまさくに、芸州=げいしゅう、長州=ちょうしゅう、家老=かろう、麻裃=あさかみしも、恭順=きょうじゅん、烈公=れっこう、斉昭=なりあき、討手=うって、今上=きんじょう、遷幸=せんこう、譲位=じょうい、旅籠=はたご、由=よし、郡司=ぐんじ、蛍見=ほたるみ、春岳=しゅんがく、直侯=なおよし、禁裏御守衛=きんりごしゅえい

 

 

「日鑑」(悠久の館展示)

「日鑑」(悠久の館展示)

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