現在の場所

第150話「能勢郡の独立と摂津国採銅所」

 

「摂津国」や「川辺郡」のように○○国や○○郡という制度がととのったのは7世紀頃、天武()天皇から文武()天皇の頃と考えられています。猪名川町域は摂津国川辺郡に属していました。また8世紀の初頭には、まだ能勢郡はなく、現在の能勢町や豊能町は川辺郡に含まれていたのです。川辺郡の行政機関「郡衙()」は現在の伊丹市あたりにありました。『()日本()()』和銅6(713)年9 月19 日の記事に「河辺郡()()()村(現能勢町宿()()、能勢町役場周辺)は山や川に遠く隔てられ、道路も険しく、大宝()元(701)年に支所のような建物を建てていたが、このたび郡司()(郡役人のトップ)を置き、あらたに能勢郡とした」という内容が書かれています。
元は同じ川辺郡であった能勢に「摂津国採銅所」が置かれた経緯は、わずかながら京都に近いというものだったのでしょうか。

摂津国採銅所の推定地は能勢町野間()出野()や片山、豊能町川尻などがあげられています。

国営の鉱山採掘()製錬()の機関である採銅所は現在の山口県や福岡県などにもありました。

摂津国採銅所は「壬生()()務家()(注)」と呼ばれた小槻()氏が代々管理・運営を行っていたようです。古代・中世の多田銀銅山に関する史料のほとんどは、この壬生官務家が残した「壬生家文書()」と呼ばれる膨大な記録の中にあります。

今、壬生寺の境内()には、近藤()遺髪()塚などのある新撰組()墓地がありますが、その一隅()に「壬生官務家の墓」が2基()られています。

 

《注釈》

(注)官務家=朝廷の文書の発給()と管理をする家。小槻氏は平安中期頃から大学の()博士()(算術を教授する人)と官務家を世襲()した。

《読み方》

摂津国採銅所=せっつのくにさいどうじょ、天武=てんむ、文武=もんむ、郡衙=ぐんが、続日本紀=しょくにほんぎ、玖左佐=くささ、宿野、しゅくの、大宝=たいほう、郡司=ぐんじ、野間出野=のましゅつの、採掘=さいくつ、製錬=せいれん、壬生官務家=みぶかんむけ、小槻=おづき、壬生家文書=みぶけもんじょ、境内=けいだい、近藤勇=こんどういさみ、遺髪=いはつ、新撰組=しんせんぐみ、一隅=いちぐう、祀られ=まつられ、発給=はっきゅう、算博士=さんはかせ、世襲=せしゅう

▼「野間の大けやきから採銅所推定地の一つ、野間出野を望む」

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